『ミュンヘン』この映画を見て!
第58回『ミュンヘン』
見所:「暴力の連鎖の哀しみと虚しさ、そして暗殺者たちの苦悩。」 つい先日トリノで冬季オリンピックが行われ、各国の選手が世界一を目指して競っていました。オリンピックは古代ギリシアの神ゼウスを祝う祭典としてギリシャ全土をあげて行われ、ギリシャ各地の都市国家群はたとえ戦争中であっても休戦して参加しなければなりませんでした。しかしそんなオリンピックも古代ローマ帝国にギリシアが併合されてから393年の第293回オリンピックを最後に一度幕を閉じました。しかし、1892年、フランスのピエール・ド・クーベルタン男爵が古代オリンピックの概念を生かし、各国から選手が集まり競技をする中で友好と平和を世界に広める祭典を行おうと呼びかけ、1896年アテネで1500年ぶり年ぶりにオリンピックが復活しました。しかし戦争や国家間の政治問題などの影響を受けて、平和との祭典というオリンピックの理念は脅かされてきました。今回紹介する映画『ミュンヘン』はオリンピックという平和の祭典がテロにより殺戮と悲劇の舞台になった事件を取りあげた実話の作品です。
1972年ドイツのミュンヘンで行われたオリンピック。各国の選手が世界一を目指して競っている中、イスラエルの選手村にパレスチナのテロリスト黒い9月のメンバーが乱入して、人質11人取り占拠しました。黒い9月のメンバーはイスラエルに収監されているパレスチナ人の解放を求めたがイスラエルは拒否。イスラエルは事態解決にのりだそうとするが、ドイツから拒否されます。交渉の末、エジプトのカイロに脱出することで合意するのですが、これは表向きの約束で、ドイツ政府は空港でテロリストを狙撃し、人質を奪還する作戦を立てていました。しかし、テロリストの狙撃に失敗、人質は全員死亡という最悪の結末を迎えてしまいます。映画『ミュンヘン』はこの最悪の結末から物語が始まります。
ストーリー:「1972年のミュンヘンオリンピックでのユダヤ人に対するテロ行為に対して、イスラエル政府は犠牲者数と同じ11名のパレスチナ幹部の暗殺を決定。作戦のリーダーに抜擢されたアヴナーは祖国と愛する家族のために任務を受ける。しかし、任務は過酷なもので、イスラエル政府は表向き一切関与せず、自分でターゲットを見つけ出し殺さなければいけなかった。妊娠7ヶ月の妻を残しヨーロッパに旅立つアヴナー。車輌のスペシャリストスティーヴ、後処理専門のカール、爆弾製造のロバート、文書偽造を務めるハンスの4人の仲間と合流して、ヨーロッパにいるターゲットを一人また一人と暗殺をしていく。しかし、いつしか彼らも暗殺する側だけでなく、暗殺される標的にもなっていく。次々と仲間を失うアヴナー。いつしか彼自身も暗殺の恐怖に脅えるようになる。」
この映画は『標的は11人──モサド暗殺チームの記録』という原作を基に制作されており、 映画で描かれる暗殺事件は全て実話です。またこの映画で描かれる暗殺チーム以外にも多くのチームが結成され、テロに関わった黒い9月の関係者をイスラエル政府とその対外諜報機関「モサド」は暗殺していったそうです。しかし、このモサドによる暗殺は黒い9月側からの報復を受けることにもなり、果てしない報復という名の暴力が2者の間で繰り広げられていくことになります。
この映画を理解するにはイスラエルとパレスチナの問題をある程度知っておいていたほうがよいと思います。日本人にとっては、パレスチナ問題は遠い国の出来事であまりピンとこないかもしれません。しかし、この問題は国際的に非常に重要なものであり、中東そして世界の平和にも現在暗い影を落としています。長い間、自国を持てず流浪の民族だったユダヤ人にとってイスラエル建国は悲願でありました。しかし、イスラエル建国の為に、長い間その土地に住んでいたアラブ人は追い出されることになりました。そして、イスラエル建国に反対する周辺アラブ諸国とイスラエルはパレスチナの土地をめぐって戦争を開始します。イスラエルは武力を持って、パレスチナ全土を征服。もともとパレスチナにすんでいたイスラム教徒やキリスト教徒は難民となってしまい、ガザや西岸地区に追いやられてしまいます。追いやられたパレスチナ人もPLO(パレスチナ解放機構)を設立。当初はイスラエル抹殺の立場をとり、武力闘争を展開してましたが、途中からパレスチナ人の民族自決権を求めるようになりました。しかし、イスラエル側の入植地拡大やパレスチナ自治区の隔離政策、テロ撲滅の名による無差別虐殺などがパレスチナ人側の反感を買い、パレスチナ側のテロも頻発して、現在も不安定な情勢下であります。
この映画はイスラエルーパレスチナ問題という非常に複雑で深刻な政治問題を題材にしており、暴力の連鎖の虚しさと哀しみを描きます。暴力に対して暴力で応酬しても、生み出されるものは平和でなく多くの死者だけという事実をこの映画は観客に突きつけます。テロリストを殺しても殺しても次々と新たなテロリストが生み出されるという虚しい構図。この映画は911のテロ後のアメリカの報復戦争に対して痛烈な批判が込められています。それは映画のラストシーンにスピルバーグがあの建物を登場させたことからも如実です。
またこの映画は主人公たちの暗殺に対する苦悩や葛藤が随所に描かれており、国家と個人の関係性を観客に改めて問いかけます。愛する国、民族のために暗殺を重ねる主人公たち。しかし、果てしない暴力の連鎖の中で、いつしか自分たちがやっていることが正しいことなのかどうなのか迷い始め、主人公は国家から距離を置き始めます。国家を守るための崇高な任務が実は相手側のテロ行為と何ら変わらないという虚しさに苛まされる主人公。この映画は国家の為に自分を犠牲にすることの虚しさを描きます。
ユダヤ人であるスピルバーグは今までも『シンドラーのリスト』などユダヤ人の悲劇にまつわる映画を撮ってきてました。今回の映画もイスラエル(ユダヤ人)の悲劇を描く作品であることにかわりありませんが、イスラエル側の対応にも疑問を投げかける作品となっています。暴力の応酬は死以外何の悲劇も生まないという事実を示し、和平の道はないかと訴えかけます。そこにはユダヤという民族を愛するが故にあえて苦言を呈すスピルバーグの姿があります。
この映画の見所は政治的なメッセージだけではありません。ざらついた画質の中で70年代の風景や雰囲気を上手く捉えた映像、暗殺シーンにおけるサスペンスタッチの演出、生々しいバイオレンス描写など見所は多く、3時間ちかい上映時間ながら一瞬足りとも退屈させません。とくに、この映画のバイオレンス描写は陰惨で生々しく見る者に嫌悪感を与えます。肉体を貫通する銃弾、飛び散る肉片、噴き出す血とスプラッターホラーも真っ青の描写が何度も出てきます。徹底したバイオレンス描写はもちろん監督の趣味が大きいと私は思うのですが、テロや暗殺という行為の残酷さと陰惨さを観客に伝えます。
もちろん、この映画は問題点もあります。この映画はあくまでイスラエエル側の視線で語られた作品であり、イスラエルーパレスチナ問題に関して両者を公平に描いているわけではありません。この映画ではイスラエル側は悲劇の被害者であるのに対して、パレスチナ側はあくまで加害者として描かれます。現実にはイスラエル側もパレスチナ人に対して残虐なことをしてきた加害者でもあります。なぜパレスチナ人がイスラエルを攻撃するのかが、この映画ではそのことに関してはほとんど触れられません。この映画はあくまで暴力の連鎖の悲劇を描くに過ぎず、なぜ暴力の引き金が引かれたのかが描かれていないのはマイナスだと思います。
この映画は日本人から見るとピンとこない映画化もしれませんが、アメリカの報復戦争に積極的に参加し、日本もテロの標的とされている今、この映画が問いかけるテーマは決して他人事ではないと思います、ぜひ、ご覧になってください!
「ミュンヘン」公式サイト http://munich.jp/
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コメント
コメントみなさんありがとうございます。この作品、政治的メッセージもさることながら、エンターテイメントとしても1級の作品ですよね。緊張感あふれる暗殺シーンの数々は見ていて手に汗握りますね。また粒子の粗い映像も70年代の映画の雰囲気を漂わせて、渋くていいですね。
投稿: アシタカ | 2006年3月14日 (火) 23時20分
こんにちは。「アマデウス」に続いて、こちらへも勝手ながらTBさせていただきました。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。
この映画は3時間もあったんですね。私もまったく長いとは感じませんでした。ユダヤ人のはずのスピルバーグが、あれほどパレスチナに同情的な視点で描けば、それは大騒ぎになるのも納得です。すごいことをやったなぁと素直に感心しました。
また遊びに参ります。今後ともよろしくお願いします。^^/
投稿: -hiraku- | 2006年3月14日 (火) 14時08分
こんばんは。TBさせていただきました。
ニュースで伝えられている内容や、歴史的くだりを知ってはいるものの、アラブ諸国の紛争の本質的な部分はきっと日本人には完全には理解できないのだろうなぁ、と思いました。テロにテロで対抗しても争いは収まるはずがない、という現状を見せ付けられ、重い気持ち。これだけ重く長い作品を一気に見せるスピルバーグはさすがだとは思いますが、個人的には作品の中に入っていけませんでした。
投稿: Sis.C | 2006年3月13日 (月) 23時26分
みなさん、コメントありがとうございます。アカデミー賞では予想通り無冠に終わりましたね。ユダヤ人が大きな影響力をもつハリウッドでイスラエルーパレスチナ問題という重く答えの出ないテーマを扱ったスピルバーグはすごいと思います。ユダヤ人である彼がユダヤ人の暗部を描くのはリスクも大きいし勇気のいることだと思います。この映画ほど今のブッシュ政権を痛烈に批判している映画はないと思います。
投稿: アシタカ | 2006年3月 7日 (火) 23時19分
TBありがとうございます。
アカデミー賞では無冠に終わりましたが、ノミネートに恥じないすばらしい作品だったとおもいます。
投稿: dkl | 2006年3月 7日 (火) 18時05分
TBありがとうございました。
重い映画でしたが、それほど長く感じませんでした。この映画ですごく怖いと思ったのが、国で報復を行った事です。恐ろしいことです。
投稿: hal | 2006年3月 6日 (月) 08時27分
こんにちは♪
TBありがとうございます。
トリノも無事終わってホッとしています。
開幕直前にこの映画を見たもので、なんとなく不安になっていました。
平和の祭典といわれるオリンピックでのあの惨劇が世界に与えたショックは大きかったんでしょうね~。
投稿: ミチ | 2006年3月 5日 (日) 08時17分